子猫殺し:告白の坂東眞砂子さんを告発の動き−−タヒチ管轄政府「虐待にあたる」(MSN毎日インタラクティブ)

 もう随分落ち着いて来た頃合いであったのに、まだ続くのか、と。
 あのう、確かに愛猫家諸氏やら、殺生とは無縁の清潔な生活をしてる人々やらの拒否反応は激しすぎたし、それに対して坂東氏を庇う方もたくさん居られるのはわかる。だけども坂東氏を擁護する人々にも、この方の態度や精神が捩じれてることは、割とすぐ分かると思うんだけど。
 だって、坂東氏に賛意を示してる方々も、賛成してるのはせいぜい「避妊去勢で生死の問題から目をそらすのは狡い」という問題提起の部分でしょう。「子猫を殺し続けること」自体に賛同してる人はいないんじゃなかろうか。それとも私が知らないだけで、日本在住の方でどなたか居られただろうか。坂東氏の「子猫殺し」選択を褒め讃える方とか、なるほど見て見ぬ振りの日本人は狡い、日本人も避妊去勢を止めて子猫を間引く方へと改革されるべきだ、と考えるに至り、我も坂東氏の後に続いて子猫殺しをするぞ、と表明された方は。


 ◆坂東眞砂子さん寄稿
(前略)
 さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。
 しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。
 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。
 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。
 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。
 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。
 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。

 うむ、「こういうことを書いた事」を告発されているなら言論弾圧だけども、この場合ポリネシア政府が告発してるのは「子猫を殺しているらしい」ことなんじゃないかな。それは現地の動物愛護関連の法律に基づいてすることだろうし、言論弾圧を目的にしたものではないと思うんだけども。(要確認)
 以前週刊誌で見た坂東氏の反論(週刊文春だったか? 訂正:週刊朝日らしい)には、フランスの動物愛護法に触れるだろう、という見解に対して「タヒチでそんなことで捕まった人なんて聞いた事もない」という下りがあった。(ちょっとソースが手元にないままの要約だからあやしいですが。失礼。)でもそりゃ、タヒチでも動物を殺す人は、捕まらないようにやってるというだけじゃないかな。「止むを得ない事情で殺すけど、広く世の中に知られるのはよろしくない」という意識くらいはあって。まあご近所さんとかお友達とかに「やー猫が増えちゃって参った、ようやく始末したけど」なんて軽口くらいは叩くにしても、不特定多数が読む新聞等に載せて広めようなんて思わないだろうし。
 氏の問題提起にはインパクトはあったけども、「子猫殺し」は実際この問題の解決に成り得ない。これで愛玩動物の生死の問題に蒙を啓かれた人に対して、それでもいいけれども、その問題を真面目に考え続けるならまず坂東眞砂子氏のことは忘れた方がいい、と私は言いたい。代わりに過去の多くの事例にあたった方が数倍有益だろう。実際ご近所の野良猫やら飼い猫やら動物虐待やらに関わるトラブルは、過去数十年の報道や書籍に枚挙に暇がない古典的な問題だし(でも自分に関係がないと、目にする機会があってもすぐ忘れちゃうんだろうな、人間って)避妊去勢というのはその中で、数々の失敗や泥沼を経験した後に、なんとかようやく辿り着いた「ちょっとはましな」解決策なんだが。
 ま、確かに坂東氏の指摘通り、避妊去勢には人間の勝手で傷つけて口拭ってる狡い部分もあるんで、そこを突かれると愛猫家諸氏もつい怯んだり感情的になったりしちゃうわけだが。とは言え、「猫を飼いたい」「避妊はどうしても嫌」「生まれる子猫を全部は飼えない」「子猫を処分するのも辛い」という対立事項に挟まれた挙げ句、「苦しみながら子猫を処分」に落ち着くというのもなんだかだ。坂東氏個人としては止むを得ない選択かもしれないが、それは坂東氏個人の解決策にしか成り得ない。わざわざ新聞紙上に載せて広めて――しかもその後の弁明を読むに、それは病んだ日本人を治そうという意図だったと言われても、それは世間知らずだろとしか答えようがない。避妊去勢よりも子猫殺しを選んで、その選択に自信を持ち続けられる人はそうたくさんいないと思うが。
 先に私は、坂東氏の「殺しの痛み、悲しみも引き受けて」という決意を信用しない、と書いた。普通人間の精神は、辛い事柄であっても繰り返すうちに狎れてしまうものだから。しかし今回の寄稿で坂東氏は「子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない」と書いている。坂東氏の主義・信条としては、止むを得ず選んだだけの不完全な正義と自覚する以上、生まれるたびに殺し続けながらも苦痛を感じ続けなければならないのだろう。
 でもね。精神的に健康な人間、健全さを保とうとする精神には、そんなことは続けられないですよ。精神的な傷を傷のままに、治さず開いたままで生きて行く事はできない。それでもその辛い行為を続けなきゃならないとしたら、ルーチンとして痛みを感じないよう受け入れてしまうか、さもなければ、その精神的苦痛がその人間を内面から壊していくことになる。
 そういう点から言っても、坂東氏の方法は一般に受容され得ない。仮に「子猫殺し」という選択が世の中に認められ広まったとしても、子猫を殺す時に人々は、坂東氏のように罪悪感という苦痛を生々しく保とうとはしない。今の日本の多くの人が避妊去勢を選択して笑っているのと同じように。そんなことは、猫を殺す選択以上に受け入れ難い、捩じれたことだから。
 で、もうひとつ考えた問題。仮に日本人が坂東氏のやり方を受け入れ、避妊去勢の代わりに子猫殺しを選択する事が一般的になったとしたらだな。
 坂東氏はそんなふうになった日本人を、本当に喜べるか? 私はこの方、真っ先にこの問題から逃げ出しそうな気がするんだけども。「私のせいじゃない」って。
 週刊文春朝日あたりの坂東氏の反論によると、あの「子猫殺し」は、動物に人形のように服を着せたりして可愛がる日本人の病理、を改善すべく示されたのだそうで。でも、人形のように服を着せ赤ん坊言葉で話しかけながら、その猫の生んだ子を容赦なく間引く、という人もいると思うね。坂東氏が母猫達を愛撫しながら、生まれてくる子猫は放り投げるのと同じように。
 おそらくは。人間が苦手だという坂東氏は、エッセイ「子猫殺し」を書いて発表したとき、「どんなに糾弾されるか分かっている」と書きながらも、読み手の膨大な数の「個人」の存在までは意識してなかったのではないか。それぞれの動物への愛情/執着やら、精神的健全さを保とうとする反動やら、どうしようもない生理的な不快感やらというもののことは。なのに自分の猫に関するジレンマのこと、つらくてたまらないのにそれを選択し続ける事を、吐きださずにはいられなかったとしたら。それは分かりやすい劇場型自傷行為でしょう。それ以上でも以下でもない。
 ――とはいえこれも、一面識もない方への、文章のみを手がかりにした私の主観に過ぎませんがね。私も坂東氏の精神衛生に興味があるわけじゃないし、本人が考え抜いての選択なら、どんなに捩じれて痛ましくても、他人がどうこう言う筋じゃない。(法に触れる点はそれはそれで告発されるべきにしてもね)
 ただ考えてしまうのは、もし本当に子猫を殺しているのなら、ということ。遠い異国の他人の飼い猫の事までどうにかできると思うのはきっと傲慢なのだろうが、それでも、なんとか助ける方法がないものか、と思ってしまうのだ。そして、不買運動やらネット上の非難というのは、子猫達を助けるためにはあんまり役に立たないな、とも。
 タヒチ管轄政府なり現地の動物愛護団体なりがこの問題に取り組んで、坂東氏を止めてくれるならそれで良いのだけど。公的権力などが介入、というと一見横暴に聞こえるが、そういう決められた裁きでも下りない限り、いつか逆上した激しい猫狂いの一派が坂東氏への直接行動に出かねないんじゃ、と思う。猫に執着しない人々からしたら「たかが猫で?」と思だろうが、他人から見たら下らない物に人生を掛けてしまう人は実は珍しくもない。それに何せ、猫ちう生き物は、人に――人個体によって特異性が非常に異なるが――何か強力な吸引力を持っていたりするらしいので。

 この世は楽園じゃない。タヒチも日本も、それぞれ別の意味で楽園じゃない。それでも、それぞれにずっと、ちょっとでもましにしようという試みはあって、いきなり思いつきで他所のやり方を持ち込んでも、そうそううまく行くものじゃない。
 坂東氏は日本の猫の問題について、あるいは自分の精神衛生について、どこまで承知の上であの「提言」を――あるいは当人の意図に関わらず「実話故に衝撃的な見せ物」を――世に示したのだろうか。