坂東眞砂子氏のエッセイ問題への反響から

 共感/容認論も出てきて賛否両論だけども。

 容認(というか、板東氏を攻撃する論調の方に違和感を覚えるという声、だな)の意見を読んでも、やはり得心はいかない。それが論理的には破綻していない、と思えても。
 元より私は猫狂いなので、猫擁護の側で見てしまう偏った立場ではあるのだけども、「子猫殺し」の選択/容認に至る経緯は、なんだかひどく本末転倒している気がする。
 そもそも、猫をどう飼うかとか、飼う飼わないとか以前に、「殺さないで済む物ならできるだけ殺さない」という大前提があったんじゃなかろうか。
 と、いうことを言うと、「好きで動物を殺してる人だっている」と言われるだろうが、この場合坂東氏は「子猫殺し」が好きな訳じゃない。避妊手術より感情的に受け入れ易い「より納得できる道」という理由で選択した、と書いている。
 じゃあ氏は子猫殺しを納得して受け入れたのか。私には、受け入れたようにも見えない。受け入れているなら、敢えて「どんなに糾弾されるかわかっている」ことを打ち明ける必要はなかっただろう。
 ということは坂東氏は、既に感情論ではない、色々考えた上での冷静な判断で「世の動物愛護家」に喧嘩を売っている。(氏にそのつもりがあったかどうかはともかく、結果的に明らかにそうなっている)
 そういうリスクを犯してまで、上げる効果は何かあったか。普通、誰かや何かに喧嘩を売るに至る理由は、自己主張によって自分の権利を獲得したり不利益を解消したりすることだろうけれども、この坂東氏の文が読者の心に共感を生んだとしても、何かが得られるとも解消するとも思えない。「なるほど、殺したくもない子猫だけど覚悟の上で殺し続けているのか、立派だ」と言われたところで、ただ坂東氏の痛々しさが際だつだけではなかろうか。
 当人と一面識もない、氏によれば「避妊手術」という手段を選び「殺しという厭なこと」を避けた甘えた人間が、勝手にどうこう言えることではないかもしれん。ただ、元々は「殺さないで済む物はできるだけ殺さない」ことを目指していたはず、という大前提に戻ると、やはり坂東氏の選択は、考えすぎて捻れたところに来ているように思える。
 そうではない、これが本来あるべき自然な選択だ、というなら、坂東氏の感情は捻れていないか。捻れていないのなら、このエッセイから感じる恐ろしい違和感と痛々しさは一体何か。(それともそんなのは、私の勝手な思いこみに過ぎないか?)
 「獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ」「他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている」と氏は言うが、そもそも猫は自然の生き物ではない。人間が手を掛けて家畜化し、本来住んでいない環境に持ち込んだ外来生物だから、どうしたって養育には「不自然」が伴う。避妊去勢は、その不自然の影響をできるだけ小さくしながら「猫の養育」を維持するためのシステムのはずだ。
 それと、「それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」という決意表明は立派だが、その「痛み、悲しみ」が持続しているかという点を、私はあんまり信用しない。何事もルーティンワークになると、狎れてしまうものだから。
 本当に「痛み、悲しみも引き受ける」というなら、生まれてすぐでなく、今度は一ヶ月二ヶ月くらいまで育ってから殺すようにしてみるとよろしい。ネットでは「猫は可愛いから殺すなというのか」という声も見かけたが、生まれてすぐの羊水に濡れた子猫は、ほとんど「可愛らしい」感じはしない。ふやけた鼠か手足のついた軟体動物といった呈だ。
 氏の意見に拠れば「子種を殺すか、できた子を殺すかの差」だということは、生まれてすぐでも猫の形になってくる一ヶ月二ヶ月目でも同じことであるはずだ。
 それなのに何故氏は「生まれてすぐ」殺しているか。やはりこれは、坂東氏なりにできるだけ「厭なことに手を染めずにすむ」選択をした結果に見える。
 私の感覚的・感情的な意見に過ぎなくはあるけども。坂東氏は、「猫が殖える」「避妊手術はいや」「社会に迷惑はかけられない」というジレンマに陥った結果、本末転倒のところへ着地してしまったように見える。より「自然に」というなら、母猫達の栄養状態を落として子を産む体力を残さない、という方法は試みなかったか。あるいは産まれた子供達が縄張りを争って、殺し合うままに任せるという選択は。(子猫が何匹生まれようとも、母猫にしか餌を与えないようにすれば、離乳期後に食事のとれない子猫は「淘汰」されるはずだ)
 坂東氏の決意は一見非常に雄々しく立派だが、やはり大変に的はずれで、決意表明の割にはやはりそれなりに「楽な道」を選んでいる印象を受けるのだった。

 それとね。時々間違えるけど、理論や理性は、常に感情を抑制するためのものじゃないよ。
 理論や理性は、どうしようもない感情と、どうしようもない現実の折り合いをつけるために、地道に妥協点を探る作業に必要な道具です。その結果が「どうしようもない感情」をねじ伏せるだけの方法になっちゃったら、妥協点の意味はないんだと思う。それじゃ結局何にも解決してないもの。