坂東眞砂子氏のエッセイ騒ぎを俯瞰して

 ようやくネット上の言及数も沈静化してきたな、というところで少しは冷えた頭で考えられる気がしてきた。
 良かれ悪しかれ、この一件で坂東氏の知名度は飛躍的に上がった。概ね悪目立ちだけど。偏ったイメージつきまくりだから、エンターテイメント作家としてプラスとはあんまり思えないけど。
 一つ確かな事には、この騒ぎが起こる前にも坂東氏のファンはちゃんといたが、21日の時点までは誰もはてなキーワードにしようとは考えなかったのだ。たまたまはてなの利用者にそうするファンがいなかっただけか、あるいは坂東氏の読者層には、この手のネット上のシステムを使って坂東氏のことを広めようとか、他の人からの情報を探すのに役立てようとか思うタイプではないのか。
 で、おそらく今後ほぼ確実にありそうなのは、坂東氏の名前はこれまでの代表作であったはずの、映画化された「死国」「狗神」や直木賞受賞の「山妣」よりも、今回の「子猫殺し」とともに語られるようになるだろう、ということ。あればかしの短いエッセイでこれほどの騒ぎを引き起こしたというのは、ある意味天晴れとも言えるけれど、ちょっとそれは小説家としてどうよと思う。
 やはり、悪目立ちだったのだろう。本人の意図がどこにあったにせよ、あの文章には、人が理性で抑制している感覚を逆撫でするところがある。
 食べるためでなく殺す、家畜と割り切って育てたわけではない気持ちを寄せる(寄せるはずと思しい)動物を殺す、無抵抗の嬰児を殺す、いずれにしても不快であったり罪悪感を伴ったりする行為だ。様々な意味で、多くの人ができるだけ避けたい、やむを得ずすることになっても表には出したくない、出すとしたらずっと時間が経ってから昔話として、あるいは自分が望んだわけではないことを理解される場で、反省して繰り返したくないと思っている事を示しながらでなければ他人になど話せない、と感じる種類の事柄だろう。例えば、法的には認められていても、堕胎の話はごく親しい信頼できる相手でもなければそうそう話せないだろう。一般的には動物殺しも、それと同様だと思う。
 まあ害虫/害獣駆除ならまだしも――いや、そうだとしても大量にとか、淡々と殺したとかの場合は、なかなか人には話せないことだろう。
 何故と言って、そういう出来事に罪悪感と嫌悪を感じる人々が、世間には多いから。理性がどのように「殺すのは悪いこと」と決めるに至ったかは忘れても、「良くないこと」という感覚に刻まれている場合が多いから。全ての人々が激しく嫌悪するわけでないにしても、全国紙のエッセイであれを不意打ちのように読まされたら、反射的に拒否反応を示しても不思議はないのじゃなかろうか。
 まあ、そこでフランス大使館やタヒチ動物愛護団体に抗議と対策依頼送りまくるとか、焚書や罵倒に走るとかいうのもあまりに激しすぎる、それも良識ある人としてどうよ、と感じる反応ではあるけれど。でもそんなふうに、何かしないではいられない追い込まれた感覚、というのは分からないでもない。ほんとに深い生理的嫌悪は、もう理詰めでは何もどうも説得できない部分がありますんで。(何かしないではいられなくても、その気持ちのまま行動するのが正しいとも思わないけどさ)
 ただ考えてみれば、そのような普段の理性的抑制をかなぐり捨てた多くの人々のバッシングは、まさしく坂東氏の言うところの、都会生活で失われた「人が自由に生きたいと思う欲求」の一番素直な解放の形ではあるまいか。だとしたらこのような反応は、氏が引き出そうと願った感覚そのものである可能性も、あるのではなかろうか――?