「三浦悦子 ●『聖体礼儀』——記憶の饗宴」ならびに小谷真理×高原英理 トークショウを見る

 浅草橋にあるparabolica-bis、Galleria Yaso nacht [ガレリア夜想・ナハト]にて。

 三浦悦子氏という方はかねていくつかの人形展で作品をお見かけし、更には異形コレクションにも「アート偏愛」「闇電話」のカバーアートで参加しておられるので、機会があれば見ておきたいと思っていたのだった。 確か、最初に見たのは偶々通りかかった渋谷東急で開かれていた有志による人形展で、あれはおそらく「義躰標本室」のシリーズだったと思うのだが、身体の欠損や包帯、ホチキス留めされた傷跡などに、痛々しさと加虐のイメージを強く感じたのだった。しかしその後東京現代美術館での球体関節人形展(2月22日)で見かけた時には、「在るべき物をなくした姿ではなく、異国の見知らぬ種族」ではないか、と感じるようになっていた。
 何が違うのだろう、私が狎れて擦れてしまっただけか、とも思ったが、今回の展示を見たらなんとなく分かった気がした。
 身体的欠損への違和感や傷の痛み、加虐/被虐の感覚、も、意図してはいるかもしれないが、今回展示された人形達は、朗らかに上機嫌そうではないものの、「それがどうした」という風に見える。四肢のあるべきところに球体関節のみが置かれている人形がたくさんあったが、彼等は生まれついてその姿なのだと思えば、手足のないことを憐れむのは筋違いであろう。そう思わせる堂々たる表情ではあった。
 薄暗い照明の中、まるで盛りつけられた果物のように卓上に並べられ重なり合っている姿や、卓の外へ異形の足先を延ばしている姿を見て、そんなことを考えた。

 で、ちょうどこの日は、小谷真理氏と高原英理氏のト−クショウ(司会は「夜想」の今野裕氏)が開かれる日であった。そういうものをやるとは知っていながら日付を確認しないで出掛けたのだけども、受付で聞いてみたらまだ席があるとのこと。わあいラッキー、とばかりに聞いていくことにしたのだった。
 トークの内容を覚えているところだけでも。ただし、メモもとらないうろ覚えによる私個人の意訳で書いてますから、食い違いのあるところもあるかと思います。どうぞご容赦下さい。
 お気づきの点がありましたらお知らせ下さると大変ありがたいです。

  • まず小谷氏と高原氏より、パンクからゴスが生まれる音楽史における経緯を。ただし、一応後から辿っていくとこういうことらしい、という流れはあるにしても、その時代にその音楽シーンを見聞きしていた人々に言わせると、どうも違和感がある、ともいう。マリリン・マンソンあたりは自分のスタイルの「出自」を演出した節もある。
  • 一口に「球体関節人形」と言っても、実は四谷シモン氏などの人形と、近年人気の、恋月姫氏などのドーラーの皆様の作る人形とは全く違う。イメージが、というか、目指す物が。四谷シモン氏は芸術作品としての完成形を目指しているが、ドーラーの皆様が作り、それを購入していくお客さんが求めていく人形は何か欠けたところがあるもののような。(四谷シモン氏曰く――正確な言葉ではない意訳ですが――「何故あんなできそこないを出すのかわからない」)
  • 上記との関連で挙げたエピソード。以前「夜想」の企画で恋月姫氏に百体だかのお人形を作ってもらって展示即売したことがあったが、それだけたくさんの人形があると、顔の造作やお化粧の感じなど、「これはどうよ」という物もある。だが売り出してみると、意外にもそういうお人形の方が早く売れていったりする。ドーラーの展示会に来て購入――お迎えしていく人々は、自分にとってその人形が「必要」で来ている。自分を引き写す物か、あるいは自分の欠落を委ねられるものか。
  • 三浦氏の今回の人形作品について。これまでも氏の作品は、体のどこかが欠けたり奇形化していたりして、痛々しい印象を与える物だったが、最近の作品では、普通の一般的な人体とはかけ離れたプロポーションをしているには違いないのだが、痛々しさからは遠い印象。ある人の感想では「誇らしげだね」と。(これは、上記の私の感想にも近いですな)
  • ゴスロリの服を着る人々(主に女の子達)と、いわゆるドーラーの人々とは、元々の流れが共通するわけではないのだが、実際関わっている層はかなり共通している。(関連して、質疑応答で)人形を作る人の中には、ゴスのファッションから人形の方へ入って欲しくない、という人もいるようだが、共通したものもあるようだし別にいいと思う、というのがお三方の意見。
  • (質疑応答から)今回の三浦氏の作品などから、義躰とは何ぞや。「攻殻機動隊」等で取り上げられて、SFのギミックとしてはかなり広まっていることだけども。高原氏の考えるに、一番その身近で一般的な形態は眼鏡だろう。人体の、欠けた部分や能力を補う物。ただ、欠けてなくなったところを人工物で埋めて、それで元通りに近付くか、というと、どうしても何かが足りなかったり、あるいは余計な物が増えすぎてしまって、元通りの人体からどんどん遠離っていくのではないか。三浦氏の人形にはそのような造形が多く見られる。例えば男性の体に馴染めない人物が、女装をすることで女性に近付くか、というと、それはだんだん男でも女でもない別物になっていくような。