明治大学にて佐藤亜紀氏商学部特別講義第三回を聞く

 大倉集古館を出て日比谷線・丸の内線経由で御茶の水に向かったのだが、駅を出て早足で歩いていると、順天堂大学が見えてきた。先方の案内板には「↑水道橋駅」とか書いてある。
 ……曲がりそびれたんである。
 そういうわけで急遽戻ってJRお茶の水駅前から明治大学リバティタワーの16階へ。結果15分ほど遅刻した。ふんだ。
 講義は、色々と脱線しながらも面白かったですよ。いや、脱線が面白いのか。
 思い出す限りメモ。追々追加します。誤記や誤解がありましたらご指摘下さい。――てか、そのうちどこぞに講義記録が出ると思うけども。
(聞きそびれた序盤に、キゾーによる「国民」と「国家」の定義についての話があったらしい。後に何度か戻って言及する。)

  • ルーベンス「ユリエールの占領」を参照して、ハプスブルグ家の女達の気質と、この時代の君主に求められていたこととは、とにかく動かないこと。現場の仕事は各方面の専門家で分担するのだから、頭がふらふらと判断を変えていては末端がやりにくくてしょうがない。(悪い例がメッテルニヒのボスだったフランツ一世)その点マリア・テレジアは、一度こうと決めたら梃子でも動かない女だった。その気質のみをもってしてあの君主としての名声を勝ち得た、と言って良い。
  • ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」 を参照して、「歴史」(括弧付きの!)なるものが大きく変化したことを表す。嵐の中を、見ている者に対し呼びかけ導くような図。それまで「歴史」の主体は君主や王侯だったが、革命戦争以降「人民」になった。同じ国とはいえ、全く自分の土地に影響が及ばない遠い国境線にプロイセン軍が侵攻してきても、それまでなら他の土地の住民が「国家の危機だ!」などといって挙国一致態勢に協力するなんてことはなかった。それが「我々の指導者」「自分たちを引っ張っていってくれる人」という構図になった。この迫力はプロパガンダだとも言われる(実際、史実ではこの時の山越えにはロバを使ったというし、ナポレオン像としても「似てなくはない、が……?」と言うくらいの代物)が、それでもこの絵には惹きつけられる力がある。ナポレオンという歴史上の人物を知らない人が見てもそうだろう。「芸術」には、そういう力がある。
  • 「国民」「人民」というのは、一つの同じ国家法の下で暮らす人々、というだけではなく、戦争時には「動員」という要素が加わる。最も分かりやすい例が徴兵だが、挙国一致態勢となると、あらゆる産業も戦争に向けられて動かされる:経済的動員、ということが起こってくる。しかし明らかに臨戦態勢でなくとも、「動員」の態勢が残っている国は結構ある。しかしこれは、戦争に備えるために、動員されている間は食いっぱぐれがない、ということでもある。(前線へ出れば死ぬこともあるわけだが)
  • ユダヤ人の迫害・動員と、もっと更にひどい扱いをされたロマ等の少数民族の話。昨年も話した、食うためにドイツ人教育を受けてドイツ軍人になったユダヤ人青年の葛藤の話や、ロマの、もう理屈などどうしようもない迫害を受けたところから出てくる割り切り:「運が悪かった」。

 等々。

 それはそうと、前回からの宿題としてブローデル著「地中海」を読むというのがあったのだけども、私は1巻くらいしか読んでなかったのだ。でも今回の講義では、結局「地中海」の話まで辿り着かなかった。次回まで持ち越しらしい。あああ;
 いや、読みますよ。読みますってばよ。でもどうも読んでる内に、この人は何を根拠にこんな地中海全体に対して一般化したようなことを言えるのだ、という疑念が頭をもたげてきてしまったもので。だって統計データとかないし。(まあ時代を考えたら当然だけど、せめて考古学的な証拠に基づいた考察てのも入っててほしかったとこなんだが)各地や各時代の生活・文物情報等の断片は面白いのだが、データ量としてはそれぞれ1/nでしかないし、これだけの根拠だけでこんな敷衍できるんか、というのがね。まあ参照文献はたくさん挙げてあるんで、「辿れる奴は調べてみなさい!」というレファレンスとしてはいいのかもしれないけど。単体で信用できるんか、というところが。
 まあ、2巻以降になると加速的に面白くなるそうではあるんだが。

 さて、次回は11月29日だそうだ。