東京藝術大学大学美術館にて「狩野芳崖 悲母観音への軌跡−東京藝術大学所蔵品を中心に」を見る

 あちこちでポスターを見かけて心惹かれたもので、最終日に急いで見に行ってきたのだった。
 狩野芳崖という画家については知らなかったのだが、幕末の長府藩御用絵師で、開国してからフェノロサらと共同で西洋画法を使った作品制作を行ったりした方なんですな。芸大の全身の美術学校開校の準備にも関わり、開校したら教授を務めることも決まっていたのだけども、その前に病死した、という。
 そうした縁もあって芸大には芳崖の作品や下絵などが沢山所蔵されているとのこと。今回の展示はほぼ年代順に並べてあって、まだ十三,四才の頃の作品でも、相当立派なものが残っている。言われなければ子どもの手とは分からないような。まあ、御用絵師の家の嫡男とあれば、それなりに期待を受けて勉強したことではあろうし、当時は成人も早かったろうから――とはおもうけども、十三,四の子がこれを、と思うとちょっと恐ろしいような哀しいような気も。
 しかして四十前で家督を継いでから世の中は瓦解に向かうので、その後生計を立てるために上京するなど、相当の苦労もされたらしい。
 今回の目玉の「悲母観音」は、その数年前にフェノロサの依頼で描いた、現在はフリーア美術館所蔵「観音」を、晩年になって改めて描き直したものだそうで、今回は「観音」の方の複製や、「悲母観音」に到るまでの期間に残されたたくさんのスケッチも同時に展示されている。二枚の観音図とは直接関係しないようにも見えるのだが、羽のある、肉感的な女性の天人のスケッチが多かったですな。迦陵頻迦の図の構想があったのでは、とも言われてるそうですが、体の線や豊かな乳房を顕わにしたスケッチも何枚もあって、仏画というにはかなり艶めかしい感じもするものだけども。しかし慈母、という印象の強いこうしたスケッチがたくさん残されてる一方で、「悲母観音」は、かなりやわらかい描き方ながらも口髭のある男性に描かれてるんですな。
 「観音」と「悲母観音」を比べると、顔立ちの描き方がより柔らかくなり、童子のポーズを合掌する姿に変え、左手下には妙義山をあしらうなど変更を加えているのですな。妙義山は製作の前に弟子達と登った折に「観音様を立たせればよからう」などと発想したとのこと。またピンクなどの明るい色彩をあしらい、金線で細かい装身具の文様を描くよう変えたあたりが、より明るくも繊細な印象を与えるのだけど、これは時代が下ってフェノロサとの関わりでの西洋顔料の使用ということもあるのかも。ただし説明文によると、「悲母観音」制作時にはもう病気のため作業が思うに任せず、金の蒔加工は盟友に頼んだ、とのこと。
 絶筆だからこそこれだけのものになったのか、とも思う一方、もうちょっと長生きして描いて欲しかったようにも思う一枚でありましたよ。