「崖の上のポニョ」を見る

 そういうわけでいそいそと見に行って来たのだった。当然私も脳内はポーニョポニョポニョ、だったもので。
 で、見て。
 うむ、怖いとか、スケール小さ、とか色々言われてますが、普通に宮崎駿作品だと思いますがなあ。宮崎アニメって、元々どっかしらに怖いところとか朧気な不気味さとかを含んでるものだと思うし。いやでも、これは大変楽しく痛快でよござんすよ。むしろ原点回帰なんじゃないでしょうか。
 だって、いろんなところでイメージに既視感がありましたぞ。リサが小さい車を山道転がして四輪ドリフトでぶっ飛ばす、なんてのは「カリオストロの城」序盤のカーチェイスあたりからの伝統だし、フジモトの手下の不気味な魚たちや、ポニョのヒトへの変身過程の造形は、「ハウル」の序盤に出てくる影とか、「千と千尋」の宿泊客達とか、「トトロ」のマックロクロスケ+猫バス(目つきが)とかの印象に重なるし。ああいうクリーチャーだかなんだか良く分からない「隣人」達の存在は宮崎作品の定番だと思いますね。(余談ですが、あたくしは個人的に、奈良美智の描くツリ目の女の子とか、アランジアロンゾのキャラクター達を思い出しましたぞ)
 波頭を蹴立てて跳ね飛ぶ幼児は「コナン」や「ラピュタ」あたりに戻った感じだし。何より、水没した家や街並み、というのは「パンダコパンダ 雨ふりサーカス」でしょう。「コナン」のインダストリア潜入過程あたりでも出てきたけど。更にデボン紀の魚や爬虫類が泳ぐ水、というのは「ナウシカ」の腐海そのままだし。や、ああいうのは、元々好きなイメージなんでしょうなあ。
 まあ難を言うと、宗介が五歳にしてはやたらと落ち着いててしっかりしすぎてるとか(夏休みに入って学童に通ってる小学生くらいにしても良かったんじゃないかなあ。マッチの扱いができる五歳児はなかなかいないと思うのだが)リサや「ひまわりの家」の老人・職員達の、ポニョやフジモトとグラン・マンマーレらの不思議への異様な順応性の高さも妙な気はしたのだけど。そのままに受容することを拒否してるのはひねくれ者のトキさんくらいでしたし。(まあフジモトは見るからに怪しいしなあ;)
 とはいえ、「ひまわり」の人々にについてはその衝撃の出会い/混乱の場面を思い切り端折っちゃってるんでしょうし(あの泡に包まれた「ひまわり」は、方々で言われてるように死のメタファですなあ。「竜宮城かと」とも言われてるけど、昔の映画「コクーン」みたい)、だからこそ女性職員とおばあさん達しか描かれてないのかもしれないけど。子供や女性の方が一般的に順応性は高いもんですから。(そういやその一方で、グランマンマーレを見た小金井丸の船員達は震えて念仏やら柏手やらしてましたな)
 してみると、「人間の血を分け与えられて契約」とか、「受け入れて真実の愛をくれる人間がいることで、人外の者も人間になれる」(インスマウスアイルランドあたりの民話の類似について書きましたが、一番良く知られた人魚姫のほかに、ウンディーネなんかもそう)とか、古典的な物語の様式でシンプルに描かれた話なんでしょうな。昨今の子供は因習からくるイメージに縛られてないんで、人外の者も柔軟に受け入れて幸せになる、という明るい結末になってるけども。

#後日追記:
 つらつら考えている内に気が付いたんだけども、考えてみれば、「恋しい男を追って走ってくる女」「人外」「変化」と言やあ、道成寺清姫じゃないか。するってえと、もし宗介が拒絶してたら、「水の泡になってしまう」だけではなくて色々と空恐ろしいことになっていたと思しい。
 あるいは、先日見た夜叉ヶ池」の白雪姫だって、自分の恋情のために辺り一帯を洪水で押し流してしまうんである。
 折角だから、ちょっと引用。

白雪 姥、嬉しいな。
一同 お姫様。(と諸声凄し。)
白雪 人間は?
姥 皆、魚に。早や泳いでおります。田螺、鰌も見えまする。
一同 (哄と笑う)。
白雪 この新しい鐘ヶ淵は、御夫婦の住居にしょう。皆おいで。私は剣ヶ峰へ行くよ。……もうゆきかよいは思いのまま。

青空文庫 泉鏡花著「夜叉ヶ池」終盤より抜粋)

 もしかすると、ハッピーエンドに見えて、あの終盤の流れで起こってたのはこういうことかもしれんなあ、と思ったり。「世界の綻びは閉じられました」とグラン・マンマーレは言ったけれども、その「世界」は、所詮グラン・マンマーレの手の中にあるものかも知れず、元の世界とはまた違う物なのかも。
 ――なんてえ、深読みはいくらでも可能なんであるが。まあ余計な妄想ということを承知しつつメモがてらここらに書き留めておくことであります。