「明日の記憶」試写会に行く

 ほぼ日刊イトイ新聞の企画に応募して券が当たったので、映画「明日の記憶」試写会に行ったのだった。第18回山本周五郎賞本屋大賞第2位という荻原浩著の原作を、渡辺謙プロデュース、堤幸彦監督で映画化した、というもの。

明日の記憶

明日の記憶

 もう表紙は映画仕様になってるのね。
 この試写会イベントは、映画の後に渡辺謙氏と糸井重里氏の対談があるというもの。
 で、映画。
 や、予想以上に面白かったですよ。感動の一大巨編というタイプの物語にはあまり乗れないもので、どうかなと思ったんだけども、普通にエンタテイメントとして見た方がいいんじゃないかと。
 これは若年性アルツハイマーの話なんで、普通だったら妻の献身とか周囲の心遣いとかいう話になるんだけれども、この場合は患者本人の視点から描いてるんでかなり怖くて恥ずかしく哀しい事にもなる。(渋谷で迷子になる下りなんぞ、アルツハイマーの症状がなくても充分怖いですよ、方向音痴には)そういや堤幸彦監督と言う人は「ケイゾク」「トリック」の方なんで、ホラーやサスペンスの手法を使って描いてるですな。画面のまん中にぽんと正面を向いた人物一人だけを置く構図とか、指摘されて気付いたけど吊り橋を通って山の中の異界へ行く、とか。あと、どう見ても「こいつどっか変だ」と思うようなミョーな老人とかエキセントリックな人物を配して見せるとかいうところも。この映画では大滝秀治が調子っぱずれな「東京ラプソディ」を歌うシーンがありましたがな。
 ラストはある意味全然救いはないのだが(というか、話の内容からしてそうなるのは分かってるんだけどさ)あるいはこれは悲劇以外の取り方もいくらでもできるというのがこの話の味なんであろう。でもそれは、「大いなる感動」というのとは違う感じなんだけども。妙に腑に落ちたというか。酷い事は酷い事なんだけども、ごく自然なこととして受け止められるというか。
 それを考えると、この映画のコピーとか、映画館の支配人コメントとして列挙されてる言葉とかから予想されるイメージは違うんじゃないかとも思う。(それぞれのコメントも間違ってはいないんだけど、見てない人がそこから想像するイメージはまた別だし)確かにそういう感動のシーンも、なくはない。「だって家族だもの」なんてえ感動的だがあんまりにも陳腐な台詞もあるのだけど、それを陳腐でなく見せている(原作からあるのかな?)のは、演出か、あるいは役者の力ではなかろうかと思う。
 コピーにもなっている「ずっと、私がそばにいます」という妻の言葉は美しいけど、この妻だって献身的なだけの人格者ではない。腹括って夫との生活は続けるものの、積年の憤懣もあるので、「妻の助力で穏やかな晩年を過ごすことができました、めでたしめでたし」では収めないのだった。
 でまあ、映画の余韻はそれなりにあったんだけれども、その後のトークが思いのほか長かった。いや、面白いトピックもあって、本人達は楽しそうだが、(文に起こしてまとめ直したら、それはそれで面白い読み物かもしれないけども)おじさま方二人の話題は盛り上がってるうちにループするんである。イベント会場でずっと聞かされるのはちょっと辛かったりして。
 あのトークは、あと一時間半は端折って欲しかった、と思うことですな。なんかトーク後では、正直言ってすっかり映画の事忘れてたりして。――はっ、私ももしやアルツハイマーがっ!
 いや、茶化してもおられん。作中病院で行われるアルツハイマーテストのシーンで、実は私、できなくはなかったけど反応は主人公より2テンポくらい遅れていたのだった。そう考えると、明日は我が身ですわなあ、このテーマは。
 それはそうと、会場で配付された「明日の記憶新聞」で、原作者の萩原浩氏の写真を拝見したのだが、これって古田新太氏じゃないんだろか?; 凄く似てるんですけど。(ちなみに古田新太氏はこの映画には出演してないです)