Bunkamuraザ・ミュージアムにて「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」展を見る

 Bunkamuraは美術館にしては遅くまで開いているので、渋谷に回ってこれを見た。
 今回のワイエス展は、ワイエスのあらゆる傾向の絵を集めて並べる、というのではなく、いくつかの代表的な絵とその絵に到るまでの素描を多数並べてみせる、というものらしかった。たぶん日本ではワイエスの絵としては一番有名な「クリスティーナの世界*1が来るという話も聞いたのだが、さすがに本物はなく、その代わりに「クリスティーナ」のための数枚の素描が並べられていたのだった。割合としては、前述の「クリスティーナの世界」をはじめとするメイン州の沿岸地域にあるオルソン姉弟の家*2や、ペンシルヴァニアの生家や近隣の風景を描いた青年期〜壮年期のものが多かったようだ。今回会場に来ていた作品だけ見ると、ワイエスってのは枯れたようなわびしい光景ばっかり描くひとかと思いこみそうなラインナップであった。実はワイエスには、若くてぴちぴちした金髪娘「ヘルガ」のヌードの連作なんてのもあるんだが。(今回は1点だけ来ていて、他の絵の中ではなんだか浮いた印象だった;)
 ところで、ワイエスはリアリズムの画家に分類されているとのことで、確かにいくつかの絵では写真家と見まごうような精緻さでもって見る物に迫ってくるのだけども、一目見て写真か、と見えた絵も、近寄ってよく見ると荒い筆の痕や引っ掻き傷から構成されていたりする。一筆一筆の塗りはダイナミックなのに、全体としてみるとハイパーリアリズムなんである。
 とはいえ、もちろんこれは題材や画材によっても違うので、水彩で大胆にぼかし、白い塗り残し部分さえおいたままで一部は陰影ゆたかに浮き上がらせる、なんてこともする。してみると、元々は大胆に描いていたものを、全体の構成として描き加えていくうちに立ち上がってくるリアルさというやつだろうか、などと思う。
 で、実はこの展示をずっと見ている間、どうも思い出されて仕方なかったのが、先日上野の西洋美術館で見た「ヴィルヘルム・ハンマースホイ」展だったりする。たぶん両者に共通する、抑制した枯れたような色調のせいだと思うのだが、ワイエスハンマースホイは同じような色調でも画風は全然違うのだ。ハンマースホイが極力淡々と、細かい小道具や造作の襞を削ぎ落とすようにして淡々とした画面を作っているのに対し、ワイエスは雑草のそよぎやら岩や老人の肌の細かな凹凸やらをこれでもかと並べて、「リアルな」画面にして見せるのだった。枯れた風景でも人っこ一人いなくても、否応なしに見る側の情感も掻き立てられてしまうのだった。なんでってこれはおそらく、「こういう光景をいつか見たことがある」とか、「ひとが暮らしている空気を感じる」という部分を突くのだね、細部の陰影が。――とりあえず私はそうだった。
 そういうわけで、個人的にはワイエスの方に強く共感を覚えるものだけども、比べてみると一層ハンマースホイの描き方の意味を考えさせられたりする。ハンマースホイは、ごくありふれた室内や風景の要素を描きながら、ありえないほどに省略して削って、どこか非現実的な印象を与えるほどにしている。私は何点も眺めているうちになんだか居心地が悪くなって来たのだが、それでも気になって目が離せず、省略された単調な画面の中に潜む物を、求められもしないのに見つけだそうとするような感じになっていた。これはこれで、彼の絵画の力というやつなのだろう。
 このあたりを相互対比するというと、双方について更に何か見えてくるような気もするのだが、漠然としているのでまだ何とも言い様がない。(あるいは既にどなたか何か言ってるのかも知れないが)とりあえず漠然と言えるのは、ワイエスの「三日月」(このページ掲載の絵)のような絵は、ハンマースホイは描きそうもないということくらい。だいたい籠とかは最初に省略しそうじゃないか? そんながさがさした凹凸のあるものじゃなくって、陶器とか金たらいとかのっぺり冷たそうな物に替えちまえ、とかね。――いやこれは妄想だけども、そんな感じ、しない?;

*1:中学だか高校の頃に美術の教科書に載ってましたぞ

*2:当時からかなり老朽化した木造の農家だったらしいのだが、ワイエスが描いたお陰か今でも保存されているという。現地を撮影したVTRを会場で流していた