明治大学にて佐藤亜紀氏商学部特別講義第4回を聞く

 詳細はまた追い追い。
 さすがに重い話が多かった、というのは、基本が「世界の絶対的な怪異性」について、と、それに対し、人間の綴る、物語としての「歴史」について、であったりしたから。
 思い出す限りで、引用されたエピソードや文献・映画としてはこんなの。

  • 佐藤氏の高校時代のエピソード。澁澤の箱入りセットを買ったために文無しになり、実家に無心の電話を掛けようとしたとき、という。
  • 佐藤氏のフランス留学中に見かけたエピソード。国立公文書館(でいいのか? ビブリオテック・ナショナルと言ってたような)で明文化されない「掟」に従って順番待ちをしていた人々の中で、ちょっとしたへまをやらかし並び直しを命じられた米国人女子学生の、不安定さから来た瓦解の図――から、欧州における米国人留学生の不適合と、米国におけるフランス人の不適合の例、夏目漱石が留学においていかに間違った方法を採っていたか、について。誰しもが日常、「おそらくこうだろう」と思いながら守り生活を維持している無言の「掟」があって、しかしもしかすると、実は全く気付いていないところにも「掟」があるかもしれなくて、いつそれらに抵触し生活が乱れ壊れるか分からないのだ、ということ。
  • 「歴史」が「物語でしかない」という声の一端として、「歴史」として残っているのは所詮識字階級が書いた物でしかなくて、書き残した人間に都合のいいように歪曲されているものだから全く資料として信頼が置けない、という意見があるが、そうとも限らない。というのは、一部には、物語として構成されきっていない、雑多な事実――資料としての主旨に関係ない下らないことや些末なことまで――まで記載しているものもあるから。一例として、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ著「モンタイユー―ピレネーの村 1294~1324」(これは上巻)というのがある。ピレネー山中の小村で、住民の大半が引っ張られた異端審問(カタリ派)の記録なのだが、家屋の構造上それぞれの家での行動や言動が筒抜けになっているようなところなので、お互いに密告したりしあうというと、どうでも良いことも含めて村民の個人的な生活がほぼ丸裸になってしまう。しかしその大半は、ほんとに「家政婦は見た」的な些末なゴシップだったりする。識字階級だからどうの、というレベルではない。
  • それに関連して。例えば日本の場合、識字階級に当たる貴族などでも、幼少期を共に過ごす乳母や乳兄弟などはいくらか下層の住民だったりするので、その時点においては庶民との文化の共有がなされる。またオーストリアの貴族の話として、近代に到ってからドイツ語を話すことを求められたときの話。きちんとした教育を受けて、たとえばフランス語などは、ちゃんと教師に習ってきれい言葉を話すような貴族の子女が、ドイツ語を話すとなると、そのイントネーションは辻馬車の御者の言葉になっている――幼児期に擦り込まれた「ドイツ語」のイントネーションがいつまでも残ってしまう。
  • 911ドキュメンタリー映画フォーリング・マン」。とても厭な話だが、飛び降りた人々について追跡調査していった結果たどりついた遺族達の反応について。
  • ナチス・ドイツユダヤ人迫害と虐殺の結果、生き残った人々について。強制収容所から生きて出られたにもかかわらず、平穏になってから自殺してしまう人というのが後を絶たない。では生き延びてその後長生きできたのはどういった人々だったか?
  • ロマのドキュメンタリー「立ったまま埋めてくれ」ロマの迫害の歴史と、それに、もう「物語にもしようもなかった」ロマの人々の対応。
  • あまりに悲惨な経験があると、そのことに関する記憶や感覚がすっぽりと抜け落ちてしまうという場合がある。現代英国人などにそれを感じる。一例として言えば、評価は高いが「指輪物語」。ああいうふうに全く別の文化や意識を持つ種族が平和的に共存しているという状況は現実にはまずあり得ない。*1英国には元々、旧教と新教という国を真っ二つに割った戦争の歴史があったはずなのだが。
  • 民族自決」というが、別の種族、グループとして明確に分けてしまうと、それまでなんとなしに共存してたものが、途端に血腥い対立関係になったりする。ルワンダ紛争だって、そもそもはベルギーの植民地政策によってフツ族ツチ族という種族が分けられ、ツチ族を支配階級とする、ということをやったために生じた。

 要するに、人の手ではどうしようもない「不条理」や、人の無力、といったことについての話ですな。まともに頭に置き続けたらとても普通に生活なんてできない、生きてくために誰もがそこそこ棚上げにして、あるいは「物語」という収まりのいい形への合理化を図って受けとめている、世界の一面について。
 講義の内容から、余計なことを色々連想したりする。クトゥルフ神話系の小説とか、ナショナリズム信奉の方々がそういうものをかたくなに大事にする理由とか。(正直言ってそういう方々とは個人的に相容れないと感じるが。だって私、確固たる「国家への帰属意識」とか「国への愛」とか「日本人としての誇り」なんて身についてないし、そも見たことも触れたことも食べたこともないんで。美味いんかそれは。ある人々にとっては甘美らしいけど)

「生まれた者は死ぬるのです」

 なんてえ言葉*2を反芻してみたりする、そんな感じ。

*1:ただし、トールキンの「中つ国」のシリーズ全体でエルフとドワーフなどが「平和的に共存」してたかどうかは私も未確認。実際戦争状態ではないものの対応はお互いかなり冷ややかで、居住地域も離れてて、レゴラスギムリの友情なんてのがものすごく稀だったからこそ物語に取り上げた、という扱いじゃなかったかな?;どうだっけ;

*2:ちなみにこの言葉が講義に出てきたわけじゃないので念のため