8月後半以降の観覧予定

 新美術館の「ウィーン美術史美術館所蔵静物画の秘密展」と都美術館のフェルメール展、は見に行く予定ですよ。
 あと、余裕があればサントリー美術館の 「小袖 江戸のオートクチュール」展と、Bunkamuraミュージアムの「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」あたりも。

 で。つらつら色々考えるにね。
 なんか私、別に俗物でいいや、と。まあ色々展覧会等に足繁く出掛けていくのは、見て回ってるうちに多少なりとも審美眼が養われるんじゃないかという希望もあるけども(しかし未だにわびさびは分からない)、でも一番強いモチベーションは、何ぞ珍しいもの、綺麗だったり優れてると言われる物への好奇心/物見高さ故、なんである。それは自分でもよく分かってるんで。
 しかし、まめに美術館・博物館に出掛ける、とはいっても、優れた芸術品を見れば何か確実に感じ取れる、というほど、自分の審美眼に自信があるわけでもなく。行って見て、何か感じ取れればめっけもんだし(それが世間一般の評価とはかけ離れた感じであったとしても)、何よりも、もし見そびれたら後で悔しい気分になるに違いない、という理由で出掛けることが多かったり。
 でも、考えてみれば、展覧会も「観賞」という娯楽である以上、無理して出掛けなきゃならんもんでもないですわな。まあ人によっては「芸術と対峙する」といった、何か求道者のような心得で心身に鞭打って出掛け続ける人も居るだろうし(私もそういう部分がなくはない)、そういう見方があってもいいだろうけど、それだって「娯楽」の一形態ではなかろか、と思うし。だからどれだけ真面目な鑑賞者・批評者であっても、他人の「観賞」という行為に「こういう見方でなきゃならん」とか「正しい芸術への愛や感性のある人なら、こう感じるはず、こうするはず」とかまで規定されちまうとしたら、それは何かすごく違うんじゃないの、と思うことだ。感想や批評から、観賞の経験を積んだ、関連知識の豊かな、あるいは感覚を表現する技術に長けた方の意見を聞くのは興味深いことだけども、それに「規定」されちゃったらつまらない。
 最近の大きい展覧会は新聞や電車の広告や、ものによってはTVスポットまで使って大々的に宣伝するので、実際会場で見かける観客には「あんた何を見に来てるのや;」という方々も多いですよ。例えば以前サントリー美術館のガレとジャポニズム展会場で見た、「ガラス?」とぶつぶつ言ってたおっさんとか。「ガレ展でガラス見ないで何見るちうのやぁ!!」とファンは思うけど、多分知らずに入ったんでしょうな、五月の連休中だったし。あと、展示品のガラスケースにべったり指紋つけて覗き込んでた中年男性とか; 多分、美術工芸品の展示なんて見に来ることほとんどないんだろな、という人々も。
 正直言って、わかんないなら帰れ、と思う人も多いですが。(実際、私通りすがりの初対面のひとに言ったことあります。庭園美術館のティファニー展でチケット買いに並んでたとき、「こんなのたいした価値もない石にデザインで高い金取って」とかぶつくさ言ってた、見るからに彼女の付き合いで来たという様子のぼっちゃんに。こちとらそのデザインを見に来とるのだわい、それが嫌なら無理に入って会場を余計に混ませるこたあないのだ。その論で行けばロダンやら佐藤忠良やらは青銅の塊で高い金取ってる詐欺師か。運慶快慶なんぞ価値の低い石どころか木ぎれだってのに)
 でもね。
 そういう輩を排除できるほどに、私も分かってる訳じゃないのですよ。目くそ鼻くそです。
 それにそういう、「芸術」に疎いひとであっても、なんかの弾みで美術工芸品を目にしたときに、思いがけない感動を得ないとも限らない。あるいはそれは、作り手の意図とは全然違うものかも知れないし、何人かで一緒に見てて同じように感動してる様子だったとしても、実際それぞれ感じるところは違うかもしれん。――というか、その方が自然じゃないかとも思う。
 まあ、いくら美術館なんて場所に不慣れでも、会場を汚らしく使われたり喧しくされたり、傍らに人の無きが如し、てのは勘弁願いたいけども。できるだけお行儀良く見てくれる分には、誰がどういう理由で、どういう感想を持って眺めてくれてもいいように思うんですけどね。