「告発のとき」を見る

 「マジック・アワー」とどっちかかな、と思っていたのだが、上映時間帯の合う方でこれ。
 むむう。
 嵐のような感動とかそういう感じじゃないんだが、そういう話にはできないんだろな、テーマから言って。ちょいとセンチメンタルすぎないかい、という感じもないではないが、それは「イースタン・プロミス」なんか見た後だからかもしれん。

 以下ネタバレも含むため、畳みます。
 トミー・リー・ジョーンズは、年は取ってもきびきび動く老練な退役軍人(元は軍警察の捜査員だったらしい)を演じていて、シャーリーズ・セロン演じる女性刑事(基地のある地域の、軍警察と管轄を接する州警察、らしい)に煙たがられながらも、息子の惨殺事件について共同捜査をしていく、という展開になる。当初は軍警察に旧知の人間が残っていると期待していたが結局誰にも頼れず、シャーリーズ・セロンに頼み/つついて自分で捜査に着手する。しかし軍警察は事態を隠蔽したがってるらしくて協力的ではないし、州警察の同僚達も冷ややかだし(縄張り争いとかめんどくさいことになってる)的確に手掛かりを追っては行くものの、行きすぎて暴走しちゃったりする。
 結局ちょっとしたことが解決に結びついて真相は解明されるのだが、その真相解明にはカタルシスはないんである。軍人として、父親としての経験から感覚的に排除していた可能性があっさりひっくり返され、終盤の真犯人の独白から、じわじわと違和感が立ち上る。
 彼は嘘をついてるんでもごまかしてるんでもないんだろな。でもそれだけに、こいつはなんだかとてもおかしい、という感じが強まっていく。自白前と同じ生真面目そうな様子で礼儀正しい応答で、時にははにかんだような微笑みさえ浮かべて、それはこういう話をする態度じゃあないだろうが、と。
 でも多分、彼にとっては地続きなんだろな。良く知った人間を殺して切り刻むことも、道端に死体が転がってたり、人を跳ね飛ばしても気にしちゃいけなかったり、負傷した捕虜の傷口に手を突っ込んだりする生活からしたら。「空腹だった?」「飢えていた」というやりとりから、もしかして食ったんか、という厭な想像もしたのだが(だって前の聞き込みで「バーベキューの臭い」とか言われてるし〜;)単にみんなでご飯食べに行っただけだったらしい。まあ、そこでよく食欲があったな、というのがポイントなんだろけど。
 最後のトミー・リー・ジョーンズの行動の意味は、はっきりとは説明されないのだが。あれは逆さで、しかも半旗だったんじゃないかな。でもあれは、序盤で自分で説明していたような「救難信号」というよりも、今居る自分の国はろくでもないことになってるんだぞ、という自戒というか、警告のような。
 斯様に、色々と考えるところの多い映画なのだけど。原題に込められた意味も気になりますのう。"IN THE VALLEY OF ELAH"とは言うまでもなく作中で寝物語に話してやるダヴィデとゴリアテの話の舞台なんだけども、最後まで見ると、彼等の場所がエラの谷「ではない」という印象がより一層強まる気がするのだった。分かりやすい打ち倒すべき悪人の大男はいない。打ち倒して賞賛してくれる人はいないし、むしろ自分たちの方がダヴィデに打ち倒されるべきゴリアテなのかもしれない。恐怖に震えていたのはダヴィデと変わりない筈なのに。「真実の話だ、コーランにも出ている」(考えてみればコーランに出てるからって何の根拠になるのや;間千年以上開いてるのに;)と主人公は言うものの、現実の戦場がエラの谷でないのは明らかなのだった。
 ――と、ここまで考えて、逆か、ということに思い至る。真実のダヴィデだって(そのような戦いが本当にあったとして、だが)内心は勇気に溢れても、「正義」を行った満足もなかったかもしれん。むごたらしく人を殺したという事実に打ちひしがれる日もあったのかもしれん。
 「エラの谷」は古来多くの場面にあって、でもその意味は色々とねじ曲げられ隠されてきたのかもしれんな、と思ったりする。米軍からしたらイラクは一方的に優位な占領地域の筈なんだが、そんな状況でさえこのていたらくだ。今後数万、数十万の不安定で暴発しかねない軍人/元軍人達を抱えて、どうするというのだろう。せめても自覚の徴に旗を揚げてみせる、というのは解決の端緒なのかもしれないが。