「最高の人生の見つけかた」を見る

 ジャック・ニコルソンモーガン・フリーマン共演、というのが気になって、なんだか評判が良いらしいので見に行ってきたのだった。この組み合わせだと絶対「貧しくも人格者で魅力的な」モーガン・フリーマンと、「見るからにひねくれて厭な奴」なジャック・ニコルソンだよな、と思って行ったらその通りだった。「クリスマス・キャロル」みたいなもんですかの。スクルージ爺さん死の直前にして改心の巻、という。
 モーガン・フリーマン演じる自動車修理工が学歴はないながらクイズ番組好きの雑学王だったり、憧れの車を転がすと途端に悪童になっちゃったり、ジャック・ニコルソンの秘書トム(本名マシュー)が意地悪なボスにしれっとして皮肉を返したりする辺りはかなり魅力的なのだが。どうもひっかかるのは、おそらくこの物語の主題の一つでもあるだろうと思しい、二人の間に何度も交わされる「神」と「信仰」についての討論。
 いや、冷徹なビジネスマンとして生きてきた男が神を信じない、というのはよく分かるんだけども。米国だと、善良で謙虚な人は必ず真摯に敬虔に神を信じてるものなのか/そうでなきゃならないのか、と違和感。それも、「神が何かしてくれるか否かに関わらず、信仰を持つことで心の平穏を保つ」とかいうものじゃなくて、「祈り信じる者は、現世的に(病気が治るとか成功するとか幸福な生涯を送るとか)も救われる/神を信じない者は酷い目にあう」という方向に向いてるのが普通らしい、というのが。
 信仰によって善良さや穏やかさを保つのはいいことですけどさ。だから真面目な信仰者に敬意を払おう、というのはあるけども、神様って「何かしてくれる人」じゃ、ないんじゃ?;
 一般的に米国人は、日本人や英国人などより信心深いらしいですが。(というか、真面目な信仰に触れる場自体が多いのだろうね)こういうのを見ると、どうも感覚のずれがあるかなあ、未だに、と思うことだった。まあ日本人だって、願い事を叶えるのに神社にお参りに行ったり、お守り買っちゃったりするわけだけども、そこは、きっとお賽銭分の御利益しかないんだろな、という割り切りもあると思うけどね。

 あ、も一つ特筆すべきこと。この話の小道具として、「かもめ食堂」に出てきた「コピ・ルアック」が登場するのだが。私は「かもめ食堂」のお陰で何物かを知ってたので、冒頭でその言葉が出てきた途端に笑いましたな。
 あれもだんだんメジャーなトリビアになりつつあるのかなあ。