明治大学にて佐藤亜紀氏商学部特別講義第3回

 夏休み明け再開の初回。
 しかし実は遅刻して行ったのだった; 前半を聞いてないんである;
 内容としては引き続き「言葉」と「モノ」「コト」との間のどうしようもない乖離、「世界が他者であること」に直面すること、と、それへの対応について。
 ――と、いう抽象表現だけみると何が何やらだが、予想外の、理性や理屈や手順やらから離れた、人間の手ではどうしようもない災難に直面したとき、言葉(をはじめとする表現)にできることはほとんどないのでは、またそういうものを表現したとしても、多くの人々はそれを理解できない/受け入れられない/分からない振りをする、といったこと。(――ちょっと違うか?;)
 今回、私が聞いた部分で、そういった「表現」とそれへの反応として例に引かれていたのは、ゴンクール賞受賞作だというジョナサン・リッテル(Jonathan Littell)著 "Les Bienveillantes" (参考リンク)と、911から5年目、というフィナンシャル・タイムズに掲載された長文コラム。
 リッテルのこの作品は元ナチで今は素性を隠してフランスで暮らす老人の回想録の形をとっていて、フランスでは七百万部だかのベストセラーになったそうな。しかし英訳がアメリカで出たら全然ふるわなかった。アメリカの名のある書評家達が、「グロテスク」とか「変態」とか酷評したそうな。この著者リッテル自身は、フランスで教育を受けたアメリカ人で、エール大学を出た後人権保護団体に入り、世界中の紛争地域で働いた、という経歴を持つとのこと。しかしそのような自分の経験そのものを用いた表現ではなく、何故ナチの老人の小説としたかというと、それは「比喩でなければ伝わらない」ということらしい。
 実際、酷い話、グロテスクで不幸な話が示す世界の一面を知らず/認めず、ある意味身勝手な幻想にすがっている、または幻想と知りつつそういうものを提示している人々はいる。まあ全くそんな不幸は想像もできない、と言う方はともかく、幻想と知りつつ提示するってどうよ、と話は展開する。
 一方、フィナンシャル・タイムズ911から5年目のコラムについて。911後の、事件についての報道や一般市民/芸術家達による事件についての表現の変化、というものをとりあげている。事件現場の写真、ビデオ映像などは当初は大量に出たが、やがてそのものはほとんど公開の場に出さなくなった。あまりにもなまなましい、ということらしい。また事件後に製作された絵画や彫刻でも、当時の現場にあった光景を題材にしたものはあまりぱっとしないらしい。ビルから落下する人を象った彫刻「落ちる女」なんてのも製作されてロックフェラー・センターに置かれたことがあったが、不評のためすぐに撤去されたのだとか。概して事件後の作品の傾向としては相当に婉曲的であったり現実逃避的であったりするらしい。そしてこのコラムの終盤でとりあげられているのが、「ユナイテッド93」と「ワールド・トレーディング・センター」の比較。前者はドキュメンタリー・タッチで特定の主人公を設けずに、後者はドラマ仕立てで瓦礫に埋もれながら救出される消防士を描くが、このコラムでは後者の方が断然優れている、としている。その理由は、要するに「共感を呼ぶから」「分かり易いから」ちうことらしい。そしてその結果として、興行収入にも相当の開きが出たから、と。
 いや、そら「ユナイテッド93」は心地よい映画じゃないだろうよ。心地よかったら拙い。どう考えたって幸せな物語じゃないし。最後の瞬間の直前、コックピットにこもったテロリストと、それを止めようとする乗客達が、どちらもそれぞれの神に祈っている図、なんてのはものすごい宗教的アイロニーだったりする。――しかし、だからって「これはだめ」というもんでも。
 で、さらにこのような映画の「売れ筋」に対して。しかし、「救いのある」「わかりやすい」物語が常に好まれる、売れる、とも言い切れない側面は確かにある、という。というのはちょっと前の「ダークナイト」のヒットとか、一部には熱狂的な支持者のある「Vフォー・ヴェンデッタ」あたりの存在を見るに。どちらもアメコミ系、グラフィック・ノベルから出ているが、こうしたグラフィック・ノベルのファンサイトなどは、一様に暗い。そのあたりにも、世界のそうした面をずっと捉えて追っている層はあるのではないか?

 上記の私のおおまかなまとめでは何がなにやらかもしれませんが、いずれどこぞから講義録でも出るでしょう。少なくとも、私はそれを期待しますね。