明治大学にて佐藤亜紀氏 商学部「特別講義」テーマ「顔と時間」を聞く
今年も昨年に引き続き特別講義企画がある、というので聞きに行く。あいにくの雨ながら、今回から会場となった大教室に半ばほどの入り。(だから列の端から座るところを捜すに苦労しないくらい)
吉川英治文学新人賞受賞等の効果もあってか、去年よりさらに幅広い層が聞きに来ていたようだった。制服姿の男子高校生とか、女子高生とか。(ちなみに近くにいたんで、見てたら途中ちょっと寝てたぞ。ノート取ってたけどこれも途中で断念してたぞ。おそらく講義を理解するのに必要な基礎知識のバックアップに苦しんだんじゃないかと)
詳細はまた後で追加するが、昨年の講義内容のおさらいと今年の講義予定の概略などを、色々と脱線して小さいエピソードを挟みながら。まあ大まかに言うと、
・芸術というのは感情や思想と言った「中身」ではなくて、そういうものを容れるに耐えうる「器」なんだということ。
・昨年の講義内容から、人間個人のそれぞれの時間経過を示す「顔」というものと、その剥奪、「顔」のない「類」としてしまうこと(あるいは「類」なるものとしてまとめてしまうこと)の暴力性について。現代の、湾岸戦争・ボスニア紛争・9.11の影響を経て変化した暴力や「日常の破壊」への恐れ、という感覚。
・今年の講義は、できれば最終的には、「そのような時代に、自然主義表現なるものが成立しうるのか」というところまで行く、予定。
とのこと。
雑談とか横道も入るけども、今回言及した作品としては、
- 古代ギリシャ美術(特に裸体像など):エロティックなモチーフについての、文化的背景を考えると製作当初の意図と現代の解釈は実は全然違っていると思しい、にも関わらず現代の我々が同じ物を見て何か感情を動かされる所がある。それが優れた芸術という「器」の力、といった話。
- イアン・マキューアン著「土曜日」:最近読んで良かった作品として、ストーリーの説明もかなり交えて。主人公はできすぎというくらい社会的にも家庭的にも成功した、ロンドン在住の中年男性なのだが、自分の幸福な生活が「煮えたぎったミルクのような世界の表面の薄皮一枚」のようなごく限られた状況であり、足のすぐ下にはうごめいている別の世界があることを、ふとしたきっかけから認識していくが、しかしその対応は諦めに満ちたものである――という。
- ポンペイの遺跡出土品:溶岩の中に何やら残っていた空間に、石膏を流し込んで象ることによって、そこで死んだヒトや獣の姿が写し取られて現れる。これは考えてみれば非情に厭な、陰惨なシロモノではある。ヒトの肉体や衣類、皮革工芸品などは灼けたり朽ちたりしてしまうが、金属製の装身具、バックルや道具などだけが身につけていたそのままの形で残っていたりする。(陰惨なものの一例として、であったか、「芸術」というのが例えていうならそのように象ることができる型、モールドに当たる物だ、ということを言うための例としてか)
以下は、昨年度講義で紹介した作品を、おさらいとして。
- スピルバーグ監督作品「シンドラーのリスト」と「宇宙戦争」と、「マイノリティ・リポート」についても少し:個々人の「顔」を与えて描くこと、逆にそれが奪われていく瞬間を描くこと、それとボスニア紛争と9.11といった衝撃によって、暴力や「紛争」「難民化」という自体が日常に近付いていること、その描かれ方、について。
- アウグスト・ザンダー写真集”Citizens of the Twentieth Century Portrait”(「二十世紀の市民肖像」か。洋書):二十世紀初頭のドイツ南部の市井人々の肖像写真群から、「二十世紀のドイツ人の顔」という「類」に到達しようとした試み。ザンダーは被写体それぞれの了承を得てきちんとした、当人らしい恰好で撮っているし、それぞれの写真に移っているのは一人一人の個人の「顔」なのだが、こういう形でも「類」と成すことにはある種の暴力性が存在する。
- エイゼンシュテイン監督作品「ストライキ」、「戦艦ポチョムキン」から、オデッサ港で戦艦を出迎える人々の図、「十月」から、レーニン登場のシーン、と、レニ・リーフェンシュタール「意志の勝利」(”Triumph of the Will”):「顔」をなくした群衆としての姿、イデオロギーのために進んで「顔」をなくしている人々の例。