nintendogsオーナーの憂鬱

 ええと、昨日の日記に何件かトラックバックいただいたので訂正もかねて続きを書いておきましょう。
 nintendogsでは、「犬をゆずる」はできるそうです。だから「死なない」からといって、止めたくなったときに「家出させる」か「データ消去」しなければならないわけではないらしい。これはちょっとほっとしました。一応「もううちにいないけど、余所のお家で幸せにしているよ」とは思えるわけだから。
 ただね、こちらもちょっと誤解されてるなあと思うことには、「リアルな死がないと駄目」と言ってるのじゃないんですよ。このゲームには強制的な、でもプレイヤーの心情として軟着陸の「終わり」が用意されてた方がいいだろう、ということ。
 だから「終わり」は「死」の形である必要はないし、現実にはあり得ないようなシュールな終わり方でも可だと思う。(ええと例えば、言葉を覚えて人間になるとか、アメリカの研究所にスカウトされるとか、実は月のプリンセスだったとか――それは「どこいつ」だっ)ヴァーチャル犬は生犬にはなりえない。というか、完全な生犬は生犬で存在して、それはそれで良いのだから、わざわざ同じ物を用意したって仕方ないし、生犬の動きの愛らしさなどは取り入れるにしても、反応や学習システムなどについてはゲームならではの特長を伸ばす方がよろしい。
 それでもゲームにも「終わり」を、というのは、前にも書いた通り、ヒトの方が耐えられないんじゃないかと思うから。
 考えてもごらんなさい。ゲーム側からの強制的な「終わり」がないということは、プレイヤーが自分から「終わり」を選択しなきゃ終わらないということです。消極的な形(世話が足りずに家出される、起動しなくなってセーブデータのままになる)にせよ、積極的な形(よそへ「ゆずる」)にせよ。
 まあゲームのことだし。気軽なリセット・やり直しは普通にあることなんだけども、「ただのゲーム」と割り切るには、私が妙な感情移入をしすぎてるんですな。
 そう、ヴァーチャル犬は本当は傷つかないし痛がったりしない。データだから。飽きたり乗り換えたりしていくことに、落ち込んだり罪悪感を感じたりするのは、ヴァーチャルに勝手に気持ちを寄せてしまうヒトの方に起こることで。
 そんな変な感傷なんか覚えないなら、nintendogsを乗り換えていくのも気軽に楽しめるでしょう。それはそれで良いんだと思うし、本来ゲームって、そのくらいの位置づけのものだろうね。あんまりその比重が増えすぎると、ゲームメーカーとしては冥利には尽きるだろうけど、プレイヤーは生活が侵食されて大変;
 そのあたりが、どうも気持ちとして落としどころに困っている事なのですよ。こりゃメロメロになるだろう、というくらい愛らしく嬉しい存在と、それでも続けていけなくなって、次々忘れられていくデータと。
 「永遠の子犬」に賛辞を送る皆様の、今の気持ちを疑う訳ではないけど、数ヶ月後、数年後にはどうだろう、という疑問はあります。だってこういう育成ゲームって、最初が一番楽しいんだもの。まだ覚えることが山のようにあって、時々刻々と変化していくから。
 何年か後にも、もう新しく覚えることはほとんどないけどすっかり馴染んだパートナーになったnintendogsをずっと連れて歩いているよ、という形であって欲しいけどね。非常に好評でたくさん売れているらしいだけに、全部がそうはならないだろうな、と思っちゃうんだよ。
※ちなみに、上記の理由から私はnintendogsオーナーではないんで、この項の標題はやや看板に偽りありだが。