引き続き別れの日のことなど

 私も長らく「猫狂い」で猫まみれ生活などしているけれども、猫に関しては生物のみならず映像・画像や文章にも弱いもので、関連文献はつい手にしてしまうのだった。
 しかし、それ事実に基づいたエッセイやドキュメントであったりすると、長らく読者をしているうちに対象との別れに遭遇することも、ありましたね、そういえば。
 思えばゆんたんだけでなく、サバも、しまもニャンニャンも(ゴロンタ、しっぽ、ハナちゃん、ユキちゃんは行方不明)ツヴァイにゃん吉君も、ヘッケのみならずココアさんも、みんなもう遠くへ行ったのでした。猫に限らなければ、こたグレイうめも。アブサン民子クイールは、私が知った時点で既に「もういない」存在としてあったのだけど。
 でも狎れるものでもないね。
 猫狂いや猫飼いを止められるとも思わないけど。

 逆に、中島らも氏や鷺沢萠氏のように、ヒトの方が先に逝ってしまう場合もあって、それはそれで余計に苦しい。(とらちゃんコマは元気なのだろうか。)

 長崎での「生と死のイメージに関するアンケート」にも関係することですが。
 年をとるというのは、泣いても喚いても人の手ではどうしようもない領域がある、と知ることかもしれんですね。特に生き死にに関しては。
 私もうちの猫については「ゾンビになってでもいいから帰ってきなさい」と思うけども、反対側では帰ってこないことも分かっていたりするのだ。(生きてる可能性も皆無ではないが、まああんまりない)
 子供でいる間、いたいと思ってる間、ってのは、そういう「どうしようもないこと」を避けたがっている期間なのかもと思いますな。いずれ来るんだけど、直視しないで済む物ならしたくない。
 でもそういう人は、意外と成人した人々の中にも多いような気がする。
 してみると、リアリストなんて損な性分かもしれませんね。かといって、脆い夢のお城に住みたいとも思えないんだけど。